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ヱキセントリック少年少女

はにかみ屋のシティガール

桜のように舞い散ってしまうのならばやるせない

『ある日電球に光が点った奴の勝ちなんだよ。毎日図書館に篭って浴びるほどの本を読んでも、町田康がやって来て「くっすん大黒!」と唄ったらすべてが瓦解する。でも、君たちはこれから瓦解させる側になるんだよ。ならないと駄目なんだよ』


今日のゼミにて作家の教授が発したこの言葉を、将来言葉をつかった職業に就きたいと思っているすべての人に捧げたい。
そうなんだよなぁ。
町田康の出現というのはたしかにセンセーショナルな出来事で、中原昌也とかもそうだけど音楽をやっている人の操る言葉というのはどこか一つ突き抜けていて、挑発的で、言葉ひとつひとつが鋭角だ。この二人は個人的にもとても好きで、初めて読んだときはその特異な言語感覚にシビれたし、かなり憧れた。
これが天才という奴ならば自分はとりあえず天才ではないな、と思った。くやしいがこれは「センス」という奴だ、と思った。

では生粋のセンス(天才)がなければ何をしても無駄か?というと、私の意見では「毎日図書館に篭って浴びるほどの本を読む」ことも、また必要だと思う。
『文藝』の対談で山田詠美が言っていたが、やはり「読まなければ書けない」のだ。世の中にどんな歌であれ、小説であれ、詩であれ、どんな言葉があるのか知らなければ書けない。それがまずもって大前提。自分のオリジナリティを磨くには、まず先人の持ち物を知らなければいけない。今自分が書いた言葉を、もう他の誰かが使っていたら、と思ったら凄く怖くなる。それを知るにはやはり読むしかない。
だが時にその地道な作業をがばりと超越してしまう一瞬のインスピレーション!は、神さまからの贈り物なのでそれを使ってきた奴には笑顔で道を譲るしかないです。おめでとう。


文体を持たないと駄目、とも言われた。

文体は作家の肌に刻まれた刺青で、上着のように他人のものを着ることは出来ない。だから文体を身につけなさい、と。

新鮮で手垢のついていない、誰にも模倣できない(または、誰にでも模倣できるが故にかえってその特有性を浮き彫りにする)文体を見つけるにはかなりの修練を積まなければならないことだろうなぁ、と思う。あまり珍奇に走ってスベると痛いことになるし。一方、森見登美彦のように、文体に彼が読んだものの影響がよくあらわれているが、偉大なる文豪達のエッセンスを取り込んで消化してそこに新しい現代の風を吹かせ、「衒学的なのに巫山戯てる」という脱力感のある「味」までもっていくという、かえってエピゴーネンを逆手に取ったような技も巧い!と思う。古来よりの文学作品にオマージュを捧げつつも、これはもはや立派な彼独自の「森見節」と目される文体を獲得しているし、加えて「京都」という土地の力も最大限に生かしている。あの文体で舞台が東京だったらちと嘘くさい。京都の阿呆学生がなんやかやと一流の屁理屈を捏ね繰り回してるから、愉しいのである。(※森見氏のはエンタメ傾向の作品に限って読んでいるので、他のものを読んだら印象が変わるかもしれないが・・・。)


そういうわけであるから、あぁ文体を体得したいなぁ、と思いつつも、三島由紀夫をして『つひに文体を持たぬ作家である』と評された川端康成のような作家もいるわけで、あ、ここまでくるともうこんがらがる。(※しかしこの評は誉め言葉だと古井由吉は言うし、私もそう思う)文体を殺した文体の持ち主の主体というものはいったい何処に在るか?
とにかくもっともっと読みます。しかる後に、書きます。


それでまぁ、含蓄のある言葉を沢山拝聴でき感服したのだが、先日の花見にて取り付けていた約束を教授にあっさり忘れられていて、「・・・だと思ったよ!^^」となった次第である。もうなんか、内容云々じゃなくてそのような約束を交わしたこと自体すっかりぽんと忘れられていたので、黙って無かった事としました。
ゼミ誌の受け取りについてなんですけど、「金曜日に時間空けとくから!」と言われたんだが、果たされるか微妙・・・。口約束は危険です。


そんなこんなで新学期初日でした。
天気晴朗なれども学問の道は険し。
ちと饒舌になり過ぎて赤面、南無。